伊佐須美神社(浜町)

 浜町と下浜田町の2カ所に伊佐須美神社がある。社伝では平安初期の承和(じょうわ)年間(834〜848)に奥州からの移住者がこの神社を勧請したという。祭神はスサノオの命で、水の神、農耕の守護神の性格を持つ。
 2社の鎮座地は八瀬川本流とその分流が農業用水として分岐する地点にある。
 この神社創建にかかわる人物と思われる史料がある。
 『続日本後紀』第十三(仁明天皇)の承和10年(843)4月8日条に、「上野国新田郡の人で勲七等に叙せられていた犬養子羊・弟の真虎等2人に丈部臣(はせつかいべのおみ)の姓(がばね)を賜った」(漢文読下し)との記録がある。
 勲七等は弘仁2年頃、陸奥の蝦夷(えみし)征討の時、兵士として輝かしい軍功をあげたことを示すと思われる。
 犬養は山野で狩猟騎射に必要な犬の飼育を職掌とする伴部(ともべ)の民を表わす。
 丈部は豪族の伴部=馳使部(下働きの人々)を示す。
 右書の神護景雲3年(769)3月13日条に、「会津郡の人、丈部庭虫等2人に安倍会津臣の姓を賜った」とあり、武蔵国足立郡大領不破麻呂は氷川神社の祭司をしていたが、この人も丈部直(あたい)の姓を賜ったという。
 福島県会津高田町に陸奥国二ノ宮伊佐須美神社があり、氷川神社と同じスサノオの命を祭神としている。
 丈部は伊佐須美神社を祀り、水利・農耕の技術に長じていた伴部であったと考えられる。
 こうしたことから、子羊・真虎兄弟は、奥州会津郡に在留して安倍会津臣に仕えたのではないかと思われる(県教委歴史の道調査報告書「東山道」)。
 新田郡の人、子羊・真虎兄弟は奥州征蝦夷軍の兵士で、軍功をあげたあと会津地方の安倍氏に従って水利・開拓の技術を身につけて帰郷した。壮年期にその技術を用いて太田南部の浜田郷一帯の荒廃地に水路を開き農地を開発した功績で丈部臣を賜姓され、旧駐留地の水利・農耕の神「伊佐須美神社」を勧請・創建したという経緯を示しているのが、前述の続日本後紀の史料であろう。子羊こ真虎の名は忘却されたが、伊佐須美神社が彼らの遺業を今に伝えている。
   茂木 晃